意味を喪う

「意味をあたえる」のfktack( http://fktack.hatenablog.jp/ )の小説です。不定期に更新します。

意味を喪う(1)

仕事については色々言いたいこともあるが、生きている限り明日は続いていく。私は人間というものは死を自分で認識できないというスタンスなので、今のところは、永久に明日は続くものととらえている。とにかく夢も希望もない人は生きづらい世の中だと感じる。そういうことを強要する世の中だと感じる。どうして今日より明日は成長しなければいけないのか疑問だ。それってつまり、成果を未来形にして相対的に現時点を低く見積もるための手段ではないか。未来はやってこない。明日はくるが、未来はこないのである。

そういうことに、私だって気づくのだから多くの人が気付かない筈もない。気づかないのはそういうことを口にする人だけだが、やはり気づいているのだろう。結局はムードでありブームなのだ。今は夢を持つことがなのだ。早く過ぎ去ってほしい。夢を持つことも個人の勝手という風になってほしい。自分の夢を朗々と語らないでほしい。私は私以外の人がどうなるとか、興味はない。

夏のことを考えよう。スイカを食べた。今日、牛タンを焼くブログを読んで、撮られていた写真がスイカに見えた。私はそんなに分厚い牛タンを食べたことがなかったからである。父が斜め前の席で綿の短パンを履き、スイカにかぶりついていた。テレビでは「ドキ! 水着だらけの芸能人水泳大会」が放映されていた。ダンプ松本が騎馬戦で、次々に女性のビキニを剥いでいった。胸がむき出しになったのは、いずれも私の知らない女の人だから、私はがっかりした。父もがっかりした。しかし父の方が乳房には馴れていた。私はスイカの、種の周りの果肉がやっこくなっているぶぶんが嫌いだった。古いスイカは、やっこい領域が広かった。父はそういうスイカを
「バカになってる」
と言った。バカ、じゃなかったかもしれない。くたびれている、とか、そんなのだった。父は農家の倅だから、農作物全般に対して横柄だった。お前なんか苗の頃から知ってんだぞ、という風だった。スイカの頭をはたき、バカか利口かを予想した。母がそれを切り、みんなで食べる頃には、どんな予想をしたか忘れていた。たまに祖母だとか父の職場の人だとかの持ってきたスイカが重なることがあって、そういうときは風呂に入れて冷やした。蓋をしめておいたら母がスイカのことをすっかり忘れ、そのまま風呂をたいた。妹は私よりも幼かったが、律儀に種を一個ずつ取って食べた。種のあまりない果肉のぶぶんは子供たちに人気だった。父が種がたくさんある方が美味いと言った。弟はもっと幼かったから、服を汚しながら食べた。スイカ以外でも服を汚した。弟はギッチョだった。正面の席が私で、私が食べる様子を見ていたがら、自然とギッチョになったと両親は分析した。弟の名付け親は私だったが、母は信じなかった。私は五歳か六歳の時、祖母があるとき私の家にやってきて、祖母は東京に住んでいた。祖母とは母の母である。祖母の乳房は長く垂れ下がっている。私は見たことがない。妹はある。妹は祖母と風呂に入ったことがある。祖母の家の風呂は、私の家のよりずっと深かった。側面が高く私はまたぐことができなかった。仕方なく、踏み台を置いてそこに乗ってから仕切りをまたいだ。それは不安定だったから、私は冷や冷やした。私は怖がりだった。私が怖がりなことを、祖母は面白く思っていなかった。祖母はあるとき玄関先に犬が来たとき、私が怖がって外に出られなかったことを私はとっくの昔に忘れてしまったが、お正月などことあるごとにそのときの話をした。祖母の家の茶の間で話した。部屋に入ってすぐ右に作り付けの仏壇があった。扉はあったが、私は閉まっているのを見たことがない。毎日祖母の妹が小さな仏様用の茶碗にご飯を盛って供えていた。しかし私たちはそこに線香を供えたことは一度もなかった。手を合わせたこともない。だから、どんな人が奉られているのか知らなかったし話にも出なかった。祖母はお正月にはそこからお年玉を出してきて私たち兄弟に渡した。お年玉を仏壇に置いておいたからである。中にはピン札の一万円札が入っていた。折れ曲がらないよう、封筒も大きな物だった。他の人は小さめの袋に三つ折りの千円札とかを数枚ねじ込むように入れて寄越した。それは見方によっては、子供という立場の弱さを思い知らせているようでもあった。子供の私がそんな風に感じているわけではなかった。大人も同じだった。