意味を喪う

「意味をあたえる」のfktack( http://fktack.hatenablog.jp/ )の小説です。不定期に更新します。

余生(51) - (55)

※前回

余生(46)-(50) - 余生

 

 ところで私はこの芸能人の水泳大会の番組を、父親と一緒に観ていた。その時母は台所で洗い物をしており、妹と弟はそこら辺にいたのかもしれないが、忘れてしまった。私は父のことばかり意識していた。

 私と父は居間でテレビを観ていたが、テレビは部屋の南東側の角に設置され、私の席はだいたいテーブルの南側と決まっている。さらに厳格に決められていたのは父の席で、父は西側の柱の前であり、そこは家全体で見ても1番の西側である。東寄りに玄関のあった私の家からしたら、最奥部でもあった。父の席には座椅子が設置されており、そこには父がいる時はもちろん、たとえ不在でも他の家族が座ることは許されなかった。しかしそれは建前の話で、やはり家中ただひとつしかない座椅子に座ることは気分が良かったので、兄弟間ではしょっちゅうこの座椅子をめぐる喧嘩が起きた。

 話を整理すると、テレビと私と父の位置関係としては、テレビと父の間に私が、やや父から見て右にずれた位置に座り、私はテレビと父を同時に見ることができなかった。私は芸能人の水泳大会を観ながら、常に背後からの父の視線を気にしていた。たまに私が振り返って父の様子を伺うと、父の視線はテレビの画面を捉えたままで、私と目が合うことは一切なかった。私は、父は夏だったので黄色い綿のショートパンツを履いていたが、父も勃起しているかどうかはよくわからなかった。父はショートパンツを履く前には作業用の長ズボンを履き、庭の畑でキュウリとナスとトマトを収穫していた。キュウリは大きく曲がり、ナスとトマトには、表面に傷がついていた。私は、素人の作る野菜だから不格好なんだと解釈した。それから汗をかいた父はシャワーを浴びて、ショートパンツに履き替えた。

 私の記憶は定かではないが、水泳大会にチャンネルを合わせたのは父である。それなのに、気まずい思いをするのは、私ばかりで、しかし今考えてみると、それが父の威厳ではなかったかと思う。

 現在では視聴者の苦情が多数寄せられたのか、世の中の嗜好が大きく変わったせいなのか、水泳大会が放送されることはなくなった。それに伴って家族の中での父親の役割、ポジションも大きく変わったのである。私は先日、河合隼雄の「心の処方箋」という本をブックオフで見つけたので、買って読み、レジでは黒いユニフォームの店員に、

「メール会員への登録はお済みですか」

 と聞かれた。手を振ると、そのまま無言で会計は終わった。私は比較的ブックオフにはよく来るので、あるいはメール会員になった方がお得なのかもしれないが、いつも尋ねられるだけで一向に勧めてくることはなく、私は物足りない思いをする。

「心の処方箋」には父親の威厳に触れている箇所があり、たしか今のご時世では父親の威厳を保つのは困難であり、その理由は情報化社会が進み、子供でも大量の情報を保持することができ、父親の方が気を抜くと、すぐに知識で子供に負けてしまうからだとあった。私はそれについて大いに納得できる部分があった。しかし、この本で言っている「今」とは30年以上前のことである。すでに河合隼雄も亡くなり、この本の中では父親の威厳とは、あって然るべき、という考えに立って論じられているが、それすらも崩壊しているのかもしれない。

 やがて交通違反の切符を切られたオカダ夫人が戻ってきた。

 

 それから、半年が経ち、5月の連休が明けた。連休前に学校へ行きたくないと言っていたネモちゃんは、東京スカイツリーに登ったらリフレッシュできたらしく、平日になると自分から早起きして玄関を出て行った。代わりに会社に来なくなったのは派遣のノグチだった。ノグチが最初に休んだのは木曜日で、ノグチは朝に

「胃が痛いから休ませてください」

 と電話をし、その時は上長はまだ出社していなかったので、事務の人が電話を受けた。朝礼で報告を受けた私たちは、酒の飲み過ぎだろう、と笑った。と言うのも、ノグチはまだ20代でありながら、すでに中年体型となっており、よく友達と朝まで酒を飲むと話していたからだ。中年体型と言うと、洋梨の形のような腹部分が1番出てたるんでいるような形をイメージするが、私は、ノグチの場合は寸胴のように、胸から尻にかけて満遍なく肉がついているので、ある意味その体型は若さの象徴なのかもしれないと思った。

 ノグチはせっかちで早とちりをする性格であったが、小気味がよく熱心であるので、私たちは事務所で上司に

「社員にすることはできないのか?」

 と度々相談をした。私たちの会社は少し前に社長が代替わりをし、若い社長になったせいか、とにかく効率良く利益を上げることをスローガンとし、私の部署も商品の在庫を減らすために、人を増やすことになった。そこで派遣をとることになったのだが、派遣社員では、社内のシステムにログインできないため、できる仕事が限られてしまうのである。しかし、派遣でもアカウントを申請して入ることは可能だと、前に聞いたことがあったので上司に聞いてみると、確かにできるが、他の事業所でやっているところはないので、やはりできないのだ、と言われた。

 上司は最初の段階では

「派遣の期間が過ぎて、特に問題なければ社員にする」

 と私たち説明をしたが、派遣契約の3ヶ月が過ぎるまでに、雲行きが怪しくなり、いつのまにか社員登用の話は誰もしなくなり、ノグチは派遣社員のまま契約を更新した。どうやら営業所の部長や本社の連中は、営業所の余剰人員を私の部署へ押し込みたいと思っているようだ。私たちは当然他から追い出された中古の社員なんか嫌だったが、それはターゲットにされた社員の方も同じで、一向に人がやってくる気配はなかった。
 私たちはそのターゲットについて、作業の合間やトラックが来るまでの空き時間に、誰が来るのかを冗談を交えながら予想をしたりした。お昼ご飯を食べているときは、上司も同室で食べているのでしなかった。話が盛り上がって上司がうっかり口を滑らせたら気の毒だと思ったからである。上司は私が質問したときには

「俺も知らない」

 と答えたが、私はそれをそのまま信用する性格ではなかった。しかし、上司は本当に知らないのかもしれない。何故なら上司はこの春に、課長から係長へ降格したからである。かと言って代わりの課長が来るわけでもなく、仕事環境にはなんの変化もなかった。しかし給料は1万円以上下がったのではないかと、別の人に教えてもらった。

 私の部署へ飛ばされる第一候補は、営業のJさんではないかと、私たちは予想した。Jさんは営業所では最も年長の50代の男で、痩せ型で、ワイシャツの選び方にもセンスがあったが、仕事の方はイマイチであるとの噂であった。その証拠として、Jさんは私やH・Kくんとも仲が良く、仲が良いということは、いつまでも外回りに出ないで、私たちと談笑するからである。他の営業は8時半には自分のデスクを拭き終え、外へ出て行く。営業には1人1枚の雑巾が支給され、朝1番に自分の机を掃除する決まりとなっていた。たまに私が早く会社に着くと、その姿を目撃することができた。

 Jさんが本当に営業所の最年長であるかは、実のところ私にはわからない。営業所の所長も同じくらいの年齢の外見で、年功序列でいけば所長が最年長であるが、以前私が営業所のDという営業の送別会に、声をかけられて参加したときには、酔った所長がJさんに

「お前が辞めてから、わたしの番ですからね」

 と絡んでいるのを聞いてから、私はJさんが最年長であると認識した。しかし今思うと、これは定年の話ではなく、Jさんを追い出すという意味だったのかもしれない。所長は「自分は典型的A」と自称する男であり、Aとは血液型のことだった。

 営業所の送別会は、駅前のチェーンの居酒屋で行われ、駅前と言ってもそれは間違いなく会社からは最寄りの駅ではあるが、歩けば20分の距離がある。会の開始は19時からで、私たちは普段は定時になれば、速やかにタイムカードを押して帰途につくが、早く出たところで駅前にはスーパーがあるくらいで時間も潰せないので、6時半まで事務所で待機した。上司はノートパソコンでソリティアに興じていた。参加者は上司と私とH・Kくんだけで、H・Kくんの車に乗せてもらって現地まで行く約束をしていた。他の人は理由をつけて早々と不参加の意思を示した。不参加の理由とは、送別会の対象者であるDが嫌いだからという、わかりやすいものであった。

 Dは、私よりも9歳下の女であるが、私と同じ年に入社していた。話す機会はほとんどなかったが、1度だけ本社で行われた新入社員研修で一緒になったときがあり、その時は頻繁に会話をした。Dは細身で髪は短く、いつも黒のパンツを着用していた。営業所のルールで、女性社員はスカートの着用を禁止されていたからである。Dの実家は長野県にあり、大学がこちらだったから、就職もそのまま決めたらしい。その大学とは私の住んでいる市内にあった。私は研修中、研修とは月曜から金曜まで1週間行われ、私たちは休み時間や駅までの帰り道に会話をしたので、水曜日には冗談を言い合うくらいになった。駅まではいくらか距離があり、途中にはたくさんの木が植えられた公園があって中にはジョギングコースが見えた。その先には川が流れていて、コンクリートの橋を渡ってからようやく地下鉄の入り口が見える、といった具合だった。景色が開けた場所では、建設中のスカイツリーがよく見えた。私がジョギングコースを眺めながら、その頃の私は1日およそ5キロ走っていたので、そのことをDに言うと

「すごいですね」

 と褒めてくれた。

 ところで私が研修に行く前の週、私の先輩の阪本さんが

「うまく行けばDさんとやっちゃおうと思ってんじゃない?」

 と言ってきた。その当時はまだH・Kくんが入社してくる前の話で、その頃は部署内でもこう言った話題がよく出た。H・Kくんはあまり下ネタを言わないので、彼が来てからはあまりそういう話はされなくなった。私は

「そうですね、チャンスがあれば飲みにでも誘いますか」

 と話を合わせ、実際私は1週間も都内に通うのであれば、最後の日などは打ち上げ的なことをやるべきだろうと思っていた。私が組合に勤めていた頃は、たとえ日帰りの出張でも、帰りに居酒屋の1軒2軒は寄るのが当たり前だった。しかし当時の私でもそれがスタンダードだと思っていたわけではなかった。

 私はDに対して、それ以上の行為を期待したわけではなく、単にメールアドレスをゲットして、たまに飲みに行けるくらいの間柄になれれば良しと思っていた。

「でも、女と2人で飲みに行ったら、俺ならそのままホテル行っちゃうね。向こうもOKってことでしょ?」

 私はさすがにそれは強引すぎやしないかと思ったが、阪本さんは今までそうしてきたと言った。