余生(56)
※前回
やがて研修の最終日の帰り、
「どこかで食事でも」
と私がDを誘うと、あっさり断られた。
「奥さんと娘さんが待っているんじゃないですか?」
「待ってないよ。もう食べてるって。下手すりゃ寝てる」
本社から私の家までは2時間かかるので、嘘ではなかったが、ネモちゃんはまだ起きてYouTubeを見ているかもしれない。
「ご飯は家族の人と食べた方がいいですよ」
Dはそう言って、ひとりでエスカレーターを降りて行った。Dとは飯田橋駅から別々の路線だっだ。私は数日前の阪本さんの言葉を意識して「食事でも」と誘った自分を悔やんだ。しかし私は慣れない座学の研修が1週間も続いて疲れ切っていたので、すぐに気持ちを切り替えて帰った。
Dはそれから3年が経って会社を辞めることになった。私は研修の時以来、Dとまともに話をする機会はなかったが、たまに休憩所で私が昼を食べていると、私の昼食時の席は電子レンジのすぐそばだったので、弁当箱を温めるためにDがやってきて、
「お手製弁当ですか?」
と声をかけてくることもあった。テーブルには私の同僚が何人かいたが、Dに話しかける人はいなかった。
Dが辞める1年くらい前から、Dと所長が不倫をしているという噂が流れた。私はそのことをJさんから聞いたのだが、そのとき私は外で雑巾を干していた。私以外の人は奥の部屋にいたから、洗濯機のアラームに気づかなかったのである。私はトイレに行っていたから気づいた。
Jさんは外回りから帰ってきたところで、他の営業はまだ誰も帰ってきていなかった。Jさんはピンク色の細かい格子柄のワイシャツを着ており、50代で白髪頭だが、細身で見栄えはとても良い。その日は気温も高く、声をかけてきたJさんに、私はまぶしそうにしながら応対した。私は同年代や年下よりも、年上の人の方がむしろ気さくに話すことができ、そのときも私は真っ先に
「お早いお帰りで」
と軽口をたたいた。