意味を喪う

「意味をあたえる」のfktack( http://fktack.hatenablog.jp/ )の小説です。不定期に更新します。

余生(56)

※前回

余生(55) - 余生

 

 やがて研修の最終日の帰り、

「どこかで食事でも」

 と私がDを誘うと、あっさり断られた。

「奥さんと娘さんが待っているんじゃないですか?」

「待ってないよ。もう食べてるって。下手すりゃ寝てる」

 本社から私の家までは2時間かかるので、嘘ではなかったが、ネモちゃんはまだ起きてYouTubeを見ているかもしれない。

「ご飯は家族の人と食べた方がいいですよ」

 Dはそう言って、ひとりでエスカレーターを降りて行った。Dとは飯田橋駅から別々の路線だっだ。私は数日前の阪本さんの言葉を意識して「食事でも」と誘った自分を悔やんだ。しかし私は慣れない座学の研修が1週間も続いて疲れ切っていたので、すぐに気持ちを切り替えて帰った。

 Dはそれから3年が経って会社を辞めることになった。私は研修の時以来、Dとまともに話をする機会はなかったが、たまに休憩所で私が昼を食べていると、私の昼食時の席は電子レンジのすぐそばだったので、弁当箱を温めるためにDがやってきて、

「お手製弁当ですか?」

 と声をかけてくることもあった。テーブルには私の同僚が何人かいたが、Dに話しかける人はいなかった。

 Dが辞める1年くらい前から、Dと所長が不倫をしているという噂が流れた。私はそのことをJさんから聞いたのだが、そのとき私は外で雑巾を干していた。私以外の人は奥の部屋にいたから、洗濯機のアラームに気づかなかったのである。私はトイレに行っていたから気づいた。

 Jさんは外回りから帰ってきたところで、他の営業はまだ誰も帰ってきていなかった。Jさんはピンク色の細かい格子柄のワイシャツを着ており、50代で白髪頭だが、細身で見栄えはとても良い。その日は気温も高く、声をかけてきたJさんに、私はまぶしそうにしながら応対した。私は同年代や年下よりも、年上の人の方がむしろ気さくに話すことができ、そのときも私は真っ先に

「お早いお帰りで」

 と軽口をたたいた。