意味を喪う

「意味をあたえる」のfktack( http://fktack.hatenablog.jp/ )の小説です。不定期に更新します。

2013/12/20

 しかし、たとえどんなに正確な記憶があったとしても、それを文字に変換した途端、ある程度のフィクションが紛れ込んでしまう。私たちの暮らす世界と文字は次元が違うと言い換えても良い。つまりよく、2次元の漫画の主人公が、3次元のフィギュアとして売り出された時に、その外見はどんなに製作者が努力したところで、もはや根本的にずれてしまうのである。

 私はその人にそんなニュアンスのことを伝えようと思ったが、Twitterは140文字しか入力できないので、これを書き切るのは無理で、何通かにわけるという方法もあるが、それは野暮ったいのでやめた。

 さらにその人は子供でありながら冷静な語り口が面白いと言ってくれ、確かにこの部分でも、子供がこんな風に頭の中で論理的に語るという部分ではリアルではないのかもしれない。
しかし今となっては成人してもう15年も経つのに、子供時代の頭の中の思考形態を再現するのは不可能で、私は普段身近には未就学児もいるが、その子供の話は真剣に聞こうとすると何を言っているのか理解できなくなるし、逆にこちらの言いたいことの10分の1も理解できない。大人でもそんな感じの時がある。

 私はそれならと、開き直って完全な大人の思考で子供時代のことを書いたのである。私はそのアイディアを別に今回の話のために思いついて用意していたわけではなく、それは今仕上げている別の小説でも使っているが、その時はあまり意識はしていなかった。その小説を読んでくれたひとりが、やはり話の中の子供時代の描写について指摘し、私はあることを思い出した。

 それはおそらく私が就学する前の話で、私はその頃スイミングスクールに通っていた。私は2歳の頃に小児喘息を患い、隣の自治体にある小児病院に片道車で30分かけて2週間に1度通っていたわけだが、そこの医師が水泳を勧めたために私は市内のスイミングスクールに通う事になった。私はどちらかといえばあまり行きたくはなかった。プールは縦長であり25mか50mのコースが何本があり、1番窓側が未就学児のゾーンでそこは上げ底がしてあり、つまり本来の深さであると、未就学児は溺れた。

 

 

第1回


2013/12/11 - 西門