意味を喪う

「意味をあたえる」のfktack( http://fktack.hatenablog.jp/ )の小説です。不定期に更新します。

2014/1/14

 吸入器は家にもあり、それは病院にあるものとは異なる、高さ30cmほどのプラスチック製の箱で、スイッチがひとつあるだけの簡素なつくりで、要するにこれは空気を持続的に送り出すだけの装置だ。そこに管を取り付け、その先っぽには大人の手におさまるくらいの、口にくわえる器具があり、私は毎日それを20分から30分くらい吸わなければならなかった。薬を入れる部分はアリ地獄のような逆円錐形のくぼみになっており、そこに液状の薬を流し込んだ。傾けると薬はこぼれた。薬はガラス製のボールペンくらいの容器に入れられていた。両側の突起を折ると中身が出てくる仕組みで、片側だけでは空気の入る穴が小さいので逆さにしてもこぼれない。折る作業は専用のプラスチックのつまみで行うが、なにせガラスなので折れ口がぎざぎざしてしまうこともあり、私が自分だけでその作業をするようになったのは、随分年齢があがってからだった。

 発作が特にひどい時はこの薬だけでは効果はなく、さらに注射器で数滴垂らす黒い液状の薬もあった。この薬はいつも冷蔵庫に入っていた。強い薬らしく、1度服用したら4時間以上間をあけなければならず、大変よく効いたが、その後の4時間が待ち遠しくてたまらなくなることもあった。母親は4時間をいつも律儀に守り続けていたが、私が苦しそうにしていると30分くらいオマケしてくれることもあった。また、夜中に発作が起きた時などは寝ている母を起こしたが、母は眠そうな時もあったが文句も言わずに薬をセットしてくれたので、私は起こして悪いなと思った。

 私は家の吸入器については、とてもありがたい存在だと思っていたが、やはり発作が起きていない時は、30分も吸入器をくわえ続けなければならないのは、退屈だった。底に溜まった薬はなかなか減ってくれない。たまに退屈しのぎで、弟がミルクを飲むのと、どちらが早く終わることができるか競争したことがあったが、もちろん弟はまだ赤ん坊なので私と競争をしているつもりなどなく、ただ口に続々と入ってくるミルクを吸っているだけだった。弟は私よりも6歳下だった。私は負けず嫌いだったので、薬の液体はまだいくらか残っていたが一方的に切り上げ、自分の勝利を宣言した。

 そのあと吸入器のくわえる部分を、私が放置してテレビを見ていると、母親はそれを拾い上げて分解し、洗面器に水を張って浸けた。私は母がそれを洗ってからつけたかどうかは確認していなかったの私は洗面器を見ながらよく、例えば今夜大地震が起きて、長時間の断水状態となった場合には、水は大変貴重になるので、洗面器の水も飲料水として利用する必要も出てくるかもしれないと考えた。学校で読んだ本の影響だった。大地震が起き、お風呂の水も飲まなければならなかったが、やがて慣れた。地震が起きた時、主人公は塾に行っていたが、窓際の子たちは割れたガラスが突き刺さって死んだ。隣町の親友に会いに行ったら、鉄条網がしてあり、会えなかった。見張りの目を盗んで会いに行って玄関のチャイムを鳴らすと、お母さんが這って出てきて、

「すぐに帰りなさい」

 と言った。帰り道に意識を失い、やがて病院で気が付き退院するが、その間に祖母と猫が死んだ。そういうストーリーだった。

 私は母に洗面器の水を、1度取り替えてもらおうか頼もうかと思ったが、台所に母はいなかった。洗面器は台所にあった。父親も仕事からまだ帰ってこない。父親の仕事場は市内にあるが、途中までは大通りを車で進んで行く。途中で左折し、その交差点には大きな犬の顔面が描かれた看板があり、それは警察犬の訓練学校であると、小学校中学年くらいになって知った。そこからの道順は曖昧になり、父親は田んぼ道を進んだゴルフ場の脇のとある施設に勤めていた。父親の仕事については、また後ほど詳しく書く。その父親もまだ帰ってくる時間ではない。

 母は台所にいなかったが、それは家を出て行ったとかそういう話ではなく、母は客間も兼ねている父の部屋にいるのだった。そこは家内の唯一の喫煙箇所だったので、父も母もそこで煙草を吸うのだった。

(続く)

第1回


2013/12/11 - 西門