意味を喪う

「意味をあたえる」のfktack( http://fktack.hatenablog.jp/ )の小説です。不定期に更新します。

2014/2/7

 アメリカザリガニと言えば、私の家でも私が幼い頃に飼っていた。私は2歳の時に小児喘息を発症したので、ペットを飼うことは禁止されていたが、ザリガニには毛がないので、OKだった。もちろんそういう理由で飼うことにしたわけではない。

 しかし私は幼かったので飼っていた記憶はなく、ある日ザリガニは2匹とも同時に死んでしまった。理由は私が蚊取り線香を水槽の中に放り込み、両親がそれに気づかずに朝を迎えたからである。蚊取り線香はすっかり水に溶けて、水は濁り、ザリガニは2匹とも腹を上に向けて死んでいた。蚊を殺すくらいなのだから、ザリガニにしても毒なのだろう。両親は死体を庭の隅の、椿の根元に埋めた。その数年後には、私や妹が今度は同じ場所に死んだ金魚やフナを埋めた。椿は土地の境界の役目を果たしていて、その向こうは本家の桑畑だった。しかし、私は本家の人間には全く面識はなく、一帯誰の“本家”なのかは不明だった。

 今、私は“椿の根元”と書いたが本当は椿は車庫の裏に植えられていて、実際死体を埋めた方の木はなんだったのか、今の私には思い出せない。その植物は今でも植えられているはずなので、見に行こうと思えばすぐに確認ができるが、私はそもそも植物に興味がないので見ても名前はわからないだろう。椿は花びらも葉も分厚い気がして、なんとなくよそ行きの植物のような印象がある。ちなみに私の両親の家は、家から車で5分くらいの距離なので、見に行くこと自体は簡単だ。

 私の両親は、私とは対照的に植物とか野菜を栽培することが好きだった。父は自分の親が農家であり田んぼも所有していたから、畑を耕したりするのには慣れっこであった。一方母は東京都の出身であるから、畑仕事は成人してから初めて行ったので、泥をいじるのが楽しかった。私が小学四年になると、私の家は初めてビデオを購入したが、両親は毎週「趣味の園芸」を録画していた。しかし、録画したものを見ている姿を見かけたことはなかった。私は、それほど昔の人間ではないから、その当時はもう周りの友人達は家にビデオを持っているのは当たり前だった。私は家にないのが恥ずかしかったから、さも家にある風を装って話を合わせた。

 私は小学生くらいの時にはゴールデンウィークの時などに、野菜の種まきをするのでそれを手伝ったりしたが、大して楽しい行事ではなかった。肥料は臭くて、トウモロコシの種には防腐剤が塗られていて、ピンク色をしていた。私は父母の育てる野菜のうち、トウモロコシが断トツに好きだったので、トウモロコシの種を撒く時のことだけは少しおぼえている。毎年狭い畑の中に何本か畝をつくり、どこに何を植えるかは父が決めるが、私たち兄弟はみんなトウモロコシが好きなので、父がトウモロコシの畝を1本増やすと言ったら、私たちは全員喜んだ。

 それと私は畑仕事には大して興味を抱かない子供であったが、乗り物の類が好きで、トラクターに乗ったりするのが楽しかった。トラクターやコンバインは父の実家にあり、私の家から父の実家までは、歩いて7分くらいかかった。トラクターやコンバインは、実家の古い方の車庫に保管されており、中は薄暗く、そこへ私は1人で忍び込んでトラクターやコンバインによじ登って小さな背もたれのないシートに座って1人はしゃいだ。シーズンオフだったので、シートにはうっすらとホコリが積もり、私は構わずそのままお尻を載せたので、私のズボンは汚れた。シーズン中は軽トラックの荷台から飛び降りたりして遊んだ。

 祖父母の古い家はもともと父やその兄弟が生まれ育った家で、中では蚕を飼っていた。私が中学生になると、それは、いつ崩れてもおかしくないから危険だと誰かに言われ、取り壊すことになった。更地には新しいガレージを建てた。その頃には祖父はもう死んでいたので、全員から祖父の記憶の一部が消えた。

 古い家には土間があり、年末にはそこで餅つきを行った。餅つきは機械で行うので、外でやる必要はなかった。土間は薄暗かったので、機械からひねり出される餅の白さが強調された。餅は大変熱いので、子供の私はまだ手の皮が薄いのでとても触れる状態ではなく、気持ちとは裏腹に手出しするがことができなかった。また奥のお勝手ではもち米がどんどん炊かれていくが、これも湯気が大変熱いので近づくことができず、子供たちができることと言えば、畑から大根を抜いて大根おろしを削ることくらいだった。畑に行く時は弟も一緒であり、外は寒かったがよく晴れていた。私と弟は白い息をたくさん吐きながら大根を抜いた。畑は私の家のよりも、何倍も広かった。大根もとても太かったので、大根おろしにするのにだいぶ骨が折れた。

 ようやくありついた餅を食べながら、ふと土間の壁に目をやると、いつの頃かわからないカレンダーがかけられていた。それは写真やイラストのない、横書き1行がひと月を表す、1枚で1年を表すタイプのものだった。経年劣化で色は黄ばんでいた。天気を記入する丸いマスが用意されていたが、1月の途中までしか塗られていなかった。

(続く)

第1回


2013/12/11 - 西門