2014/2/12
漢字テストは基本的に10問出され、1問10点と決まっていた。岸本さくらは常に100点か90点だった。私が10点とか20点を取ると、岸本さくらに愉快そうな素振りを見せ、
「10てん」
と「点」の字をわざと平仮名で書いて、私に答案を返した。岸本さくらは女なので、「てん」という平仮名も、とめ、はね、がしっかりして優雅だったので、平仮名の幼稚さとアンバランスだったので私の心に残った。
ちなみに漢字テストで20点以下の生徒は居残りで補習をさせられることとなっており、100てんの岸本さくらは、帰りの会が終わると当然すぐに帰っていった。家に帰り、妹と喧嘩をしながら犬の散歩を行うのだ。岸本さくらの家は川のそばに建っているので、散歩は土手の上を歩いた。妹は姉と違ってまるまる太っていた。1歳下であり、大して面識がない私にも、横柄に接してきた。私は自分の心の中身を見透かされたような気がして、ドギマギした。
漢字の補修は、何か特別なことが行われるわけではなく、単に漢字ノートに昼間間違えた漢字を3行とか5行書かせるだけだった。担任は職員会議とか他のテストの丸つけなどをしているので、私たちが書き取りを行っているところをずっと監視しているわけではなかった。居残りをさせられるメンバーは大体決まっており、その中には栗田みきもおり、女子は栗田みきだけで男子は何人かいたが、どの人も私と特別仲のいいわけではなかった。特にその内の1人については、特段恨みがあったわけではないが、私の中では特別に貧しい家の出身という設定となっており、仲の良いメンバーとの帰り道に、話の種としてよく笑い飛ばした。その人は飛島と言った。私たちは帰り道に朽ちかけた物置が建っているのを発見した時に、それがとてもボロいので
「これは飛島の家の別荘だ」
などと想定をして楽しんだ。飛島とは通学路が全く違ったので、その話を聞かれる可能性は0パーセントだった。私は安心して大声で飛島の今日の夕飯として、道端に落ちていた柿があったので、それを指差してさらに友達の笑いを誘った。飛島の話については私の得意分野であり、飛島の家族構成や好きな食べ物についても私の頭の中ではすっかり設定済みであった。飛島の話題となれば私は常にグループをリードすることができた。
飛島の外見的特徴を挙げると、髪は天然パーマで痩せており、顔は赤ら顔で1年中学校の体育着を着ていた。冬は体育着の上に黒いジャンバーを羽織っていた。体育着を着ていない日も1年のうち何日かはあったが、そういう時は、淡い色のボーダーのシャツなどを着ていた。
飛島の家は郵便局の近くにあり、郵便局は私の家からは自転車で10分くらいの距離があった。郵便局へ行くには国道を渡るために歩道橋を渡る必要があった。下級生の時などはそっちの方の友達と遊んだりしたこともあったが、今は遊ばないので年末に年賀状を出す時に行くくらいになっていた。
郵便局の途中に飛島の家があり、飛島の家は当時の私の家と同じく平屋であり、しかも外壁はトタンで覆われていたので、私の家よりも安価な作りに見えた。
しかし今は漢字の居残りをさせられているので、飛島を貧乏キャラにして楽しむことはできず、むしろ同盟を組まされているような状態だった。教室には5人ほどしか生徒がいなかったので、私たちは前の方の席へ移動させられ、飛島と私は机を1個はさんで隣同士に座っていた。1番後ろが栗田みきで、栗田みきはなぜか岸本さくらの席に座っていた。
少し前に「栗田みきの父親は中学の英語教師」と書いたが、実際教師なのは岸本さくらのほうであった。
栗田みきは発育の悪い女で、1年の時は中くらいの背の高さであったが、今はクラスで1番背が低く、相変わらず髪は細く歯並びも悪い。しかし今の担任は椅子も引き出しも没収することはないので、あの頃よりも栗田みきは性格が明るくなり、時には私に対しても横柄な口をきく。
「4年のときは泣いてばっかりだったのに、今じゃすっかりひょうきんになったね」
と、あるとき栗田みきは私に言った。そのときは岸本さくらもすぐ近くにいたから、私は大変不愉快だった。岸本さくらとは5年で初めて同じクラスになったのである。
私は、帰り道では飛島を
「飛島」
と呼ぶが、今は
「飛島っち」
と呼んで、たまに談笑しながら、飛島の漢字の進捗具合をチェックした。その日の漢字テストでは飛島は20点で、私は10点であったから、飛島は8個の漢字の、私は9個の漢字を、各3行書かなければならなかった。私は飛島が先に書き取りを終わらせてしまうのが面白くないので、話しかけたりして飛島の書き取りのスピードをゆるめ、最終的には私と同時か、少し私の方が早めに終わるように調整した。
(続く)
第1回