意味を喪う

「意味をあたえる」のfktack( http://fktack.hatenablog.jp/ )の小説です。不定期に更新します。

余生(16) - (20)

※前回

余生(11)-(15) - 余生

 

PC、と書いて思い出したが昨年の夏に、ここの幼稚園で飼育していた馬が死んでしまい、それは老衰で人間にカンサンすると100歳を超える年齢で、実は私がその幼稚園に通っていた当時からいた馬であった。私は馬にはあまり関心はなかったので、ネモちゃんが入園した後の父親参観の行事のときにその馬を見かけたが、まさか当時の馬だとは思わなかった。私は死んだニュースを聞いて驚いた。私はそのニュースは園長本人の口から聞き、それは去年の8月の後半に、地区対抗のソフトボール大会の練習のときに聞いた。園長は私と同じK地区に住んでいて、園長はソフトボールが大変得意であり、しかも長い期間園長なので人望もあり、ソフトボールなんかしたことのない主婦にもバットの振り方を、柔らかい口調で教えたりしていた。もう白髪頭なのでいやらしい感じはしなかったが、やはり少しはいやらしかった。最初にキャッチボールをして次にトスバッティング、それからノックと試合形式になるのだが、私は少し前から肩が痛いので、

「ちょっと肩を痛めて」

 と言って日陰で選手名簿を眺めながら時間を潰した。どちらにしろルールでは、男は45歳を迎えなければ試合には出られないこととなっている。私がここにいる理由は体育委員という役員をやっているためであった。そして馬が死んだことは、休憩中、とても暑い日だったのでオカダさんが近くのミニストップでソーダー味のアイスバーを買ってきてくれ、それを食べながら聞いた。私は練習には出なかったので、アイスの本数が足りなくては悪いので、遠慮しようかと思ったら、オカダさんは私のそんな配慮には気付かずにビニール袋を揺すって勧めてきた。仕方なく私は袋に手を突っ込み、包みの端をつかんだ。本当のところ私はソーダー味のアイスが好きではなかった。今日の練習に来た人は20人ほどいて、20本のアイスはすぐに溶けたので急いで口に入れた。

 どんな話の流れで馬の話になったのかは忘れたが、その話を私は、同じ地区の顔見知りという間柄の風を装って聞いた。園長が私のことを園児の親であり、さらには私自身もかつては同じ園に通っていて、園長のことはよく知っているが、向こうが私のことを覚えている保証はないからだ。私はかつては小児喘息を患っていて、幼稚園の半分は休んでいたし、年中具合を悪そうにしていたから、もしかしたら覚えているかもしれないが、私はあの頃とは住んでいる場所も名前も違う。

 せめてネモちゃんがこの場にいれば、流石に現役の園児の顔は覚えているだろうから、私のことも園児の父兄として扱ってくれるだろう。ネモちゃんは家でYouTubeを見ている。去年までは妻もこのソフトボール大会に出場していたが、(女は18歳以上が出られる)妻は特に運動神経がいいわけではなく、学生時代は吹奏楽部だったので、今年は足が痛いと言って、辞退したのだった。私も運動関係はほとんどダメだ。

 それでやがて馬の話も終わってアイスも食べ終わり、練習が再開したら、夫婦で練習に参加している私と同じ役の人の子供が、その人の家は3人の子供全員が来ていて、それは全員が男の子で、男の子たちは、最初は他の選手じゃない人たちが声をかけたりして、ベンチのそばで遊んでいたが、やがてどこかへ行ってしまい、戻ってきたら

「ザリガニがいた」

 と上の子が言った。ソフトボールの練習が行われているのは、県道沿いのグラウンドで、道の向こうは田んぼが広がっていて、少し行くとあまり大きくない川が流れている。農家はそこから田んぼに水を引いている。だから私はザリガニと聞いて、その川をまず思い浮かべ、そこは小学校の頃に何度も行ったし、確かにザリガニも釣れた。今でも釣れるとは知らなかった。おそらく練習はあと30分はやるだろうから、他の大人たちは川へ行っちゃダメだと注意していたが、私が

「ついていきますよ」

 と名乗り出たので、もう誰も止めなかった。練習はちょうどノックが始まったところで、お父さんの方はショートを守り、お母さんはキャッチャーで、キャッチャーマスクをかぶっていた。

 子供たちが私を連れて行ったところは、確かに川だったが、グラウンドからすぐのところではなく、そこから数百メートル川下に行ったところだった。彼らはそこでザリガニを見たと言うので、1度はそこまで歩いて行ったのだ。もしかしたら別の日に行ったのかもしれない。自分たちだけで、こんな遠くまでくるのはいけないことだと、私は長男の男の子に注意をしようかと思ったが、そこの家の教育方針はどうなのか知らないので、黙っていた。彼らは男の子3人で、長男は小学2年か3年生で、下2人はネモちゃんと一緒か年下くらいなので、年下の子がここまでよく歩いたなあと私は感心をした。私は途中に赤い橋が川にかかっていたので、この辺でザリガニを探せばいいんじゃないかと提案をしたが、彼らは聞く耳を持たなかった。赤い橋は他の橋とは違う歩行者専用のもので、材質は鉄骨でできているが、昔の橋のようにアーチ状になっていた。

 私はこれと同じ橋をつい数日前に見た。場所は伊香保であった。誰の趣味で田んぼの真ん中にこんな橋がかけられたのかは知らないが、ザリガニと同じ赤色だから子供が興味を持って、ザリガニのことを忘れてくれるのではないかと、私は期待したのであった。子供たちがザリガニを発見した場所について、最初に「あの辺」と指さした地点から、半分くらいの地点しか、まだきていなかった。このまま行って、ザリガニ釣りに興じたら、確実にソフトボールの練習は終わってしまい、そうしたらこの子達の両親は子供がいないことに気付いて、私たちを探し始めるだろう。そうしたら、探している人の誰かは、私のことを誘拐犯だと思うかもしれない。いやいないだろう。そういう風に思われたら愉快だという話だ。私は元々K地区ではなく、別の土地に住んでいた人間だから、土地にこだわりのある人なら、私のことをよそ者の気に食わない奴とか思うのかもしれない。しかしそれを言い始めたら、この兄弟の親も、結婚してからこっちへ引っ越してきていて、元々は同じ郡内の、Rという町に生まれ育ったと聞いた。それは去年の忘年会のときの話で、そのとき私たちは同じ体育委員だったので席が隣で話すこともないので、大して面白くもないが、自然とそういう話になるのである。逆に齋藤さんの方からも

「どこに住んでいるの?」

 と質問をされ、私は自分の家の場所を説明するのがとても下手なので困った。遠くの方へ住んでいる人にだったら

「コジマ電機からベルクへの通りの、ベルク寄りの左に折れて少し行ったところです」

 と言えば済む。コジマ電機の場所に関しては、遠くてもは知っている人が多いので助かる。しかし齋藤さんは近所なのでもっと細かく伝えなければならないので、

「えーと、歯医者あるじゃないですか。それで神社の方へ行って曲がって、坂を下って……」

 と説明をするのだが、この説明はタクシーになら通用するが、この辺の人には伝わらない。実は坂の途中には「○○製作所」という工場があり、その名前を出せば一発なのだが、私はいつもどうしてもその名前を忘れてしまう。「○○製作所」のそばにはさらにトヨタの孫請けの「△工場」があり、しかしそこはこの前のリーマンショックから少しして閉鎖してしまった。坂からは掲示板とコカコーラの自販機の側面しか見えなかったので、稼働しても閉鎖しても、風景はあまり変わらなかった。

 齋藤さんの生まれ育ったRという町については、私は以前の仕事で何度か来たことがあり、それは労働組合で働いていた頃の話で、そこの公民館で、組合員に対する健康診断を行い、私は受付の役をしに来たのだった。健康診断は病院の人が行った。病院の人は、8人くらいいた。公民館は家から車で30分くらいの距離にあり、私は家を7時過ぎに出た。健診の開始は9時か9時半だったので、そんなに早く出る必要もなかったが、なんせ相手は職人で朝は早いので、公民館に到着するとすでに10人以上の人が各自の車の中で待っていた。私は車を降りてから、前日にコピー用紙をカードサイズに切った整理券を持って、トラックの中に待機しているひとりに誰が1番に来たのかたずねてまわった。到着した順に配らないとあとからうるさいからで、そうしたらその人は私が見たこともない別の水色の整理券を見せてきて、手書きのフェルトペンで書かれた数字は「7」となっていた。「1」をさがしていくと、黒沢さんだった。黒沢さんは目つきは鋭くて口数も少なかったが、こういうマメなところがあり、水色の整理券は黒沢さんが用意してくれたものだった。

「おめえらいつも遅いからさ、俺が配っといた」

「すみません、助かりました」

 と私が礼を言うと、黒沢さんは無精髭の生えた口元を緩めた。あるいは無精髭とは私の記憶ちがいで、顔のシミだとか皺とかが、髭に見えたのかもしれない。黒沢さんは60を過ぎていて、若い頃、現場でたくさんのアスベストを吸っていたので、その後のレントゲンにはそれが映り、やがて肺がんになって死んだ。なぜ今までのレントゲンでは映らなかったのかと言えば、今回は特定健診用の、特注のレントゲンだったからである。私は健診の後黒沢さんに電話をして事務所に来てもらい、今まで行った作業やその時期について、アンケートを取って本部へ提出した。本部へ出す書類は上から2番目の引き出しと決まっていた。1番目は、国保組合行きである。やがて黒沢さんは、アスベストを原因とする労災が認められた。労災5号用紙を持ってきたときの黒沢さんはまだ元気であり、昨日病院を退院したところだと言ったので、私は書類の棚から7号用紙を出してきて渡し、医者に記入してもらう部分に鉛筆でマルをつけて休業補償が1日いくら出るかを、パンフレットを広げて黒沢さんに説明をした。建物の中は冷房がつけてあり、冷房の風で、パンフレットがめくれそうになった。検診が行われたのは9月で、それから1年近くが経っていた。私はパンフレットを手で押さえた。説明が終わると黒沢さんは軽トラで帰って行った。