余生(36)
※前回
ところでこの時の私は、携帯電話を持ってきてはいなかったので、正確な時間がわからなかったが、とっくに練習は終わっていると判断し、なるべく早足で道を引き返した。下の子はほとんど走っているような状態で、手の中のザリガニは腹を上に向けられ、腕が千切れそうに上下に揺れた。私はその辺に逃がしたらどうかと提案したが、無視された。私はかつて志津が学校へ入ったばかりのころに、ザリガニを捕まえてきたときのことを思い出した。課外授業か何かで釣ってきたのだ。私はザリガニは臭いから、世話は義父母に任せ、1度もその姿を見なかった。数日したら死ぬだろう、そうしたら義父が庭に穴を掘って埋めるのだ、と予想を立てた。ところが何かのきっかけで、志津がザリガニの面倒をみないというのが家庭内で問題となり、今後も面倒をみないのなら、「責任」を取って元いたところへ逃がすことになった。そして、なぜか私が志津を車に乗せてザリガニをそこまで連れて行く役目になった。
ザリガニは瀕死だった。虫籠を揺らしても重そうにハサミを動かすだけであった。私はハンドルを握りながら、義母の世話の仕方が悪いせいだと思った。義母は植木鉢の陰に虫籠を置いていたが、そこはすのこの台の上で、水温が上がり過ぎたのだ。志津はそのとき小学1年か2年で、志津の指示によって車を走らせたが、学校は休みの日で人影はなく、途中からどこが目的地なのか不明瞭になった。面倒臭くなった私は学校の裏手の水路の脇に車を停めた。水路の周りは畑ばかりだった。
「違うよ」
「いいよ。もう死にかけてるんだし」
そう言って私はガードレールの向こうに手を伸ばして、虫籠を逆さにした。落ちたザリガニは石にぶつかってから水に落ちた。志津が笑いながら
「やばいって」
と言った。
「大丈夫、多分生きてる」
私は水底の方を見ずに言った。志津はガードレールの下に体を潜り込ませて覗き込んでいたので、このまま水路に落ちてしまうんではないかと心配になった。私はこの様子を誰か知らない人に見たら、水路に落とそうとしていると思われそうなので、早く帰りたかった。