意味を喪う

「意味をあたえる」のfktack( http://fktack.hatenablog.jp/ )の小説です。不定期に更新します。

余生(21) - (25)

※前回

余生(16)-(20) - 余生

 

 それから1ヶ月もしないうちに黒沢さんは亡くなった。私は、黒沢さんの近所の組合員からそのことを教えてもらった。私は支部長に電話をかけて葬儀の日程を伝え、組合の分の香典を持って行ってくれるように頼んだ。金額は1万円で、立て替えてもらった分は、次回の執行委員会で払うと私は伝え、執行委員会は毎月月の真ん中くらいに開催され、日程は執行委員長が決める。それはいつも水曜日と決まっていた。それは執行委員長の妻が腎臓が悪く、火曜と木曜と土曜に透析を受けに行かなければならなかったからである。水曜でどうしても具合が悪いときは、月曜か金曜になった。金曜だと翌日が休みの日になってしまうので、月曜のほうがまだ良かった。それから組合員本人が亡くなったときには、花輪と弔電を打つ決まりとなっており、弔電の差出人のところには執行委員長の名が入るが、委員長の名前は「良男」と書いて「かずき」と読むので、必ずルビを振る決まりとなっていて、その分だけ電報の料金は上がった。

 話がそれたが、結局齋藤さんの実家はR町の公民館の方面ではなく、工業団地の方だったので、私は工業団地についてはわからなかったので、話すことがなくなった。やがて齋藤さんは煙草に火をつけてそれを吸った。対して私はテーブルの上のサーモンの刺身に箸を伸ばした。刺身はプラ製の皿の上にあり、他にはマグロと鯛と甘エビがあった。あとは乾き物だった。それからすることがないので、特に尿意はないがトイレに立とうと思った。そのとき、私の向かいに座っているのは老人会の人たちが3人だったが、右から女男男という順番で、知らない人たちなのでお酌だけして話はしなかったが、そのうちの1番左が私に声をかけてきた。

「君が志津のお父さん?」

「はい。そうです」

「志津はいつも元気がないなあ。ちゃんと早寝してる? 夜更かししてるんじゃなくて?」

「はあ。そうですか」

 そのときはもう私はだいぶビールを飲んでいたので、ぶっきら棒に応対した。老人は交通安全のボランティアで、毎朝志津と会っているとのことだった。

 家に帰ってから妻に聞いてみると、どうやらその人は民生委員のヤマグチというらしい。ヤマグチは地区の小学生の登下校をボランティアで見守っているが、挨拶のテンションで人の健康の良し悪しを判断するタイプのようだ。私はこの手の考えが嫌いなので、ヤマグチに無愛想にする志津のことをほめてやりたい気持ちになった。家に帰るときに、余った寿司を詰めてもらったので、私はそれを下げて自転車に乗って帰り、それをあげることにした。寿司の容器は円形で広いので、私はひっくり返さないよう慎重に運転をした。志津はそのときは小学6年で育ち盛りで背も大きい方だったので、寿司をもりもりと食べた。ただしエビだけは食べると口の周りが痒くなってしまうので、エビはネモちゃんが食べた。妻もいくつかつまんだ。

 私がそのあと2階から寝巻きを持って風呂に入ってから出ると、妻は9時台のドラマを見ながら志津にヤマグチにちゃんと挨拶するようにと叱っていた。私は

「子供が愛想よく挨拶するなんて、大人に媚びているみたいで気持ち悪いし。今度ヤマグチに会ったらもう挨拶しなくていい。無視しろ」

 と口を挟んだ。「しなくていい」という言い回しが父親っぽくて、嫌だった。妻は

「それはいけないでしょ、挨拶できないのは問題だ」

 と言い返し、私と妻はそのあと口喧嘩になった。志津は挨拶がしたいともしたくないとも言わなかったので、どう思っていのかはわからなかった。私は酔っ払っていたので、もう寝ることにした。寝る前にしかし志津はもう6年生なのだから、少しは媚びてもいいのかもしれないと思った。

 それから翌年の春に志津は中学生になり、5月に入ったところで

「学校に行きたくない」

 と言い出した。ネモちゃんが言い出す1年前の出来事である。

 

 ところで私の書くスピードが遅いので、書き終わらないうちにゴールデンウイークが明けてしまった。私がこの小説を書き始めたのは、4月の花見のときであった。休みが明け、私は久しぶりに会社へやってきた。

 3ヶ月ほど前から私の部署では派遣社員を雇うようになった。1人入ったが、その後にもう1人くらい入れるとなって、そうしたら最初の1人であるノグチくんが

「それじゃあ自分の友達連れてきてもいいですか?」

 と言ってきた。友達は翌月から入り、2人は仲良く仕事を覚えて行った。私もそれ以外の人も常日頃から思っていることだが、私の部署の仕事は楽で、そのため2人が仕事でヘマをする姿は、なんとなく微笑ましく我々の目に写った。しかし、B男の方はとても不器用な男であり、ネジを回すのにも右回しか左回しかもわからずにスノコの隙間にネジをぽろぽろ落とす有様で、彼のいない時に事務所で上司に聞いてみると

「面接じゃニトリの家具を組み立てたことあると言っていたよ」

 と言うので、少なくとも私たちの仕事は、ニトリの家具を組み立てることよりは難しいということがわかった。私たちの仕事についてもう少し書くと、あるひとりの先輩は娘が2人いるが、この2人は父親がどんな仕事をしているのかについて、一切教えられていないそうだ。恥ずかしくて言えないという理由だった。その話を私たちは雑巾をみんなで干している時に聞いたのだが、元は私が水を向けた話で、その前日に私は志津に

「ノブくんの仕事は絶対にやりたくないよ」

 と言われ、そのことをみんなに話したのだ。 先輩は

「子供には自分がなにやってるか教えてない」

 と言い出した。雑巾は大量にあったが、雑巾用ハンガーは2つしかないために干しづらく、誰か担当を決めて他の人は別の作業でもすれば良かったが、もう夕方で片付けも終わっていたので他にすることがなかった。

 この志津のエピソードは取り方によっては、親を敬うことのできない現代の子供の悲劇となりそうだが、私は私だってこんな仕事は進んではしたくないと思っているので、志津の言葉は当然だと思い、何のショックも受けなかった。それが悲劇なのかもしれない。するとH・Kくんが

「お前は誰の金で買った服を着てると思ってんだ、とか言わないんですか?」

 ときいてきた。もちろん冗談だったので、まわりのみんなは笑い、私も敬意を表して1番大声で笑った。B男は左耳があまり聞こえないので、雑巾を干すことに集中していた。

 私はふと、H・Kくんの家は自営業だと聞いていたので、自営業の親はそういう風に言って子供を叱りつけるのではないかと考えた。「服」と言ったのだから、なにか服飾関係のお店を開いており、そして失礼な想像だがH・Kくんの実家の店は売上が悪く、年中「誰の金で――」のやりとりが食卓で交わされていたのかもしれない。

 そう考えるとH・Kくんはもっとがつがつした性格になってもいいような気がする。こんな給料の安い、やりがいもない仕事ではなく、不動産の営業でもやればいいのだ。H・Kくんは今の生活を「余生」と語っていたことがある。H・Kくんは私のひとつ下の年齢で、私は「余生」という言葉に驚き、感心もしたが、一種の強がりではないかとも受け取った。H・Kくんは中学時代は野球部に所属していて、人生のピークはその3年間だった。

 私たちが総勢8名で雑巾を干していたのは夕方5時50分くらいで、これが済めばあとは日報をつけて帰るだけだった。派遣社員の2名については紙の出勤表に時刻を入れて、上司のサインをもらうだけだ。ところがPCは事務所には2台しかなく、しかもそのうちの1台は生産管理の人と兼用だったので、この時間帯はPCのまわりにみんなが集まって大変混雑する。PCを使う順番は勤続年数順と決まっており、待っている間に工程管理表を紐で綴ったり、明日の当番をカレンダーに書き込んだりする。B男はその作業は手伝わずに、自分の出勤表に夢中になっている。PCが2台ということはそれを載せるデスクも2台だから、B男は机を使うことができず、時刻を書く字がよれよれにならないよう壁にしっかりと紙を貼り付け、慎重な手つきでペンを擦り付けていく。その頃上司は外に出て煙草を吸っていて、ドアの隙間から臭いが事務所の中にまで漂ってくる。

 

 私はゴールデンウィーク前から風邪気味で喉が痛かった。そのため連休は家でごろごろしていたかったが、普段ならばネモちゃんが体に乗っかってきたりして、ちっとも休めない。しかし昼過ぎに義母が

「浅草に行く」

 と言い出し家族全員で出かけたので(義父は除く)私は家にひとりきりになったので、だいぶ休めた。その日の夜には久しぶりに会う友人と飲む約束をしており、この人は大学時代の1年先輩だが、二浪してから大学へ入ったから、実際は私よりも3歳年上だった。この人と話したことについてはまた後で触れるが、私は前日の時点ではとても喉が痛かったので、ドタキャンしようかとも思ったが、ずいぶん久しぶりに会うことになったし、場合によっては風邪を口実にして早めに切り上げるのも手かもしれないとか考えた。メールでちょくちょく報告を受ける結婚相談所(結婚マッチングサイト)の話も大変興味があったので、行くことにした。